渡辺 道雄 物語 本文へジャンプ

私を育ててくれた皆様 ありがとう。
これから私の物語を気の向くままに書きます。読んでくださってありがとうございます。
この間、一杯の人に可愛がってもらい楽しい思い出があります。そして、これからの先の私の人生・時間を皆さんに精一杯奉仕しお返ししたいと思っています。

『No.1 生まれた時の事』
私は、1940年12月(昭和15年)三重県  四日市で生まれました。父は、戦争に行き1945年終戦で日本に帰り三原市幸崎で医者をしていました。皆さんにお世話になりいい父だったと自慢に思っています。56歳で亡くなりました。三原高校を卒業し東京の私立大学機械科を卒業しました。その後、県内のトヨタ系のディーラーに勤め、自分で自動車の仕事がしたくてグッドモータースをオープンし今日に至っています。

『No.2           』
グッドモータースを開店したとき1974年(昭和49年1月)三原市貝野町に開店しました。当時スズキを売っていましたが良く壊れたりしました。軽四は360ccで車検というものがありませんでした。その後、エンジンが550ccになりAT車が誕生しました。でも登り坂は力がなく大変なシロモノでした。今日の軽自動車の成長には驚きです。日本では自動車の中で軽四が一番売れています。SUZUKIのボス 鈴木 修さんの執念のたまものですね。ありがとうございます。

『No.3 貴方も軽自動車に乗ろう。』
三原を走っていると狭い道がありますネ。左側に小型車が駐車していたら当然あなたはブレーキをかけ右側にウインカーを出して右側車線を少し走っていますね。そして走行中、自分の忘れ物に気が付いたらUターンします。そして病院など行っても駐車場は狭いですね。軽自動車は世界中で日本のオリジナル商品です。
外国の人があの黄ナンバーが珍しいです。私たちの世界に通じる誇りですね。
若い人もオッサンもおじいさん、おばあさん 軽自動車に乗ろうよ。

『No.4 オートバイの趣味が宝です。』
私は中学生に頃から興味がありました。父がいない時を狙ってコッソリ家にあったバイクを引っ張りだし無免許で乗っていました。50ccの2サイクルで自転車のフレームにエンジンを取り付けたようなオートバイです。でもメカニズムや走行したときの感じはもう天下を取ったような気持ちですね。免許を取って150ccのツーリングバイクに乗っていました。ツーリングバイクはもちろん、公道を走行するので法規を守る義務があります。これにあきてオフロード ジャリ道 デコボコ道を走るレース用のバイクに乗ってみたくなりアクセル全開です。でもケガは自分持ち。これからも続けます。ある面これは危険ですが、これに乗る事は自分の神経を刺激し正常に保ってくれ身体が元気で長生きします。私が証明します。乗り始めのころ30km位しかスピードが出ていないのに70kmの感覚がありました。それからトライアルバイクにも挑戦しました。トライアルバイクは主に250ccで岩を登ったり川を渡ったりします。モトクロスもトライアルもバイクの性能よりその正確なライディングテクニックが要求されます。このころ、レースやスクールのため良く兵庫に行きました。モトクロスやトライアルが世界中の趣味だと思います。それでいいか、海外に友達ができるだろうと思いそのために英会話スクールに10年間通いました。それが今になって役に立ちこれからの一お会いの友達、ニュースが世界中から私に集まってきます。いい時代、楽しみですね。

『No.5 宇宙からのプレゼント』
オフロードバイクのライディングテクニックは人が乗っている プロの乗っているのを良く見るとすごく簡単に見えます。そのためレース場に行ってプロの走りを見たり本を読んだりバイクを改造したり、休日に友達と繰り返し練習していました。でも一定のレベルまでは走れましたがなかなか上達しない、そんな長い時間を過ごしていました。それからモトクロスとトライアルのスクールへ何度も行きましたがなかなか上達しません。オフロードライディングは体の筋肉、体にすごく力がかかり良いスポーツです。

『No.6 渡辺 明さんとの出会い』
彼は、1978年125ccで日本人唯一の世界チャンピオンになりました。彼は77年5月ベルギーGPで足を負傷しもう再起不能と言われましたが持ち前の執念と粘りで78年世界タイトルに輝きました。彼の走りは国内で見ていましたが誰よりもスムーズですごく早かった。78年2月浜松の彼のマンションへ私は会いに行きました。そしていろいろなお話を聞く機会がありました。なんと素晴らしい出会い、人ってこんなことから人生に花が咲くんでしょうね。78年12月彼がシーズンオフを向かえ広島に呼んで1日間スクールと世界GPの報告会を開きました。その時レース場でRM125ccという2ストロークの市販レーサーで走ってもらいました。走っていてもいつも全開でどうやって走るか、どんなライディングテクニックかさっぱり理解できませんでした。この時のスクールが今に21年もの間広島県で続いています。

『No.7 』
オートバイ世界チャンピオンの一般社会の地位。特に日本の中であなたは、渡辺明さんという人がモトクロス日本唯一おチャンピオンだなんて私が言っているから そうなんだとお思いでしょうか?勉強不足ですね。ヨーロッパ・USA・カナダ・ニュージーランド・オーストラリア等日本以外の国では、モトクロス ロードレーストライアルのチャンピオンといえば英雄ですよ。私はもう10年も前フランスへモトクロスレースを見学に行きました。まずビックリしたのは観客が日本の10倍位、そして有名ライダーのテントは一杯の人々、会場をアナウンスがレースを盛り上げます。私は、残念ながらフランス語のので良くわかりません。その会場で私はレースを見学に来ている年寄りに英語で話しかけました。私たちは日本からレースを見学に来ました。と言ったらその年寄りは、AKIRA WATANABEはどうしているかな?と言うお話。もうチャンピオンを取ってから30年も経っているのにこの会場にかの有名なモトクロスチャンピオンのガストンライヤーさんに連れて行ってもらいました。ガストンさんについては後でお話ししましょう。
ここで少し休憩・・・・またNo.8を続けてご覧ください。

『No.8』
ここで私の家族の事を書いてみます。
三原市内に住んでいます。女房の紀子、そして息子・娘・孫4人 みんな元気ににぎやかにやっています。紀子にはいつもいつも感謝しています。おかげで良い夢を少しづつ見ています。母とはよく意見が合わず喧嘩していましたが三原ルーテル教会の会員でクリスチャンでした。そのせいで私も会員になり洗礼を受けました。母が私に残してくれた唯一の教えです。父も母も私を可愛がってくれ母は93歳で亡くなりました。オフロードバイクは私に夢を与えてくれ女房や家庭・オートバイの仲間に感謝です。日本と世界に一杯の友達が出来ました。そして三原も日本も世界もみんないい人ばかりです。
自分の個性、ココロモチに感謝 そして私の誇り。今自分で社長業をしながらオートバイという趣味を持ってそれが夢を与えてくれ成長・学習っせてくれ今進行中、成長中です。
三原、日本、世界の人に知ってもらい夢とパワーと奉仕したいと思います。すべてありがとうですネ。決してこのことを思い、あきらめない。夢は必ず実現します。

『No.9 ガストンライヤーさんからお土産』
今亡きGASTONRAHIER ガストンライヤーは世界でも有名なオートバイのレーサーで一杯の実績を出し日本を愛し、世界中のバイクファンから愛されジョークの好きな人でした。だから言葉もフランス語・フレミッシュ語、英語、スペイン語、ドイツ語とお話しされました。彼との初めて会ったのは1972年・1973年とスズキモトクロス全国大会というイベントが浜松で行われました。当日晴天で私は中国地区代表選手として90ccバイク参加しました。当時日本はオートバイが売れモトクロスもすごい盛んでした。18000人くらいの人が集まりました。その時初めてガストンさんの走りを見ることが出来ました。もちろんこの大会で優勝しました。スムーズなライディングと早いのにビックリ!私はその時英語が出来なかったのでお話しすることが出来なかった。その後、1975年76年77年78年とスズキ125ccでモトクロス世界チャンピオンに輝きパリダカールラリーにBMW800ccで2度優勝されました。2005年に58歳で亡くなりました。74年75年77年と渡辺 明さんはガストンさんと一緒に世界GPを戦っていました。そして1991年明さんがパリダカレースにガストンさんのチームで参加し完走しました。そんなご縁で明さんにガストンさんを紹介してもらいずっとそれが続いています。1999年10月秋晴れの2時間SSER主催のガストンライヤーミーティングというイベントが四国でありフランスから来て下手な英語で私はお話しすることが出来ました。その後SSERのお招きで毎年秋にイベントミーティングがあり毎年私は参加しました。2003年11月のイベントでガストンさんから「来年日本でSSER主催のオートバイのラリーがある。俺は出場する。渡辺サンでないか?」というお誘いの話。ガストンさんはいつもジョークの好きな人です。そして体調を少し崩していたことも知っていました。でも私にとってすごいチャンスです。1分間私は考えてYES ハイ参加しますといった時思わずハグしてくださいました。そして2004年5月1日に九州をスタートし舞鶴から北海道までフェリー、北海道から東京でゴールしました。70人くらいが参加し完走は45人くらいでした。行程6日間、総走行距離4800km毎日朝早くから夜中まで走り私はスズキDR250ccでエントリーし37位で完走しました。ガストンさんは北海道で転倒する事故があり負傷されDNF完走不可能になりました。東京タワーの見える広場がラリーのゴールでした。夕方6時ごろ少し暗くなりかけた時ラリーエントランド参加者・役員がみんな私を出迎えてくれました。そしてガストンさんが私を出迎えて下さり「コングラチュレーション おめでとう そして日本語でチクショウ」と言った。私はあのパリダカのチャンピオンに勝ったんだ。本当にこれはすごい。ジョークではない。このラリーに4人の外人がエントリーしてきたのでまさに国際レースだった。それから9か月後ガストンさんは帰らぬ人となった。さみしく、又悲しい そしてガストンさん そのファミリー、明さん。私のワイフ紀子、仕事仲間みんなにありがとうと感謝。いつもありがとう。そして素晴らしいガストンさんの言った言葉を思い出します。それから時間が過ぎ外国のバイク仲間と会った時ガストンさんとラリーに出た話をするとき皆が渡辺さん素晴らしかったネと言って下さった。神さんからのお土産です。ありがとう感謝、感謝、この日私の人生で最高の日だった。

『No.10 新年のご挨拶』
平成29年 新年おめでとうございます。今年もお客様にいい車に乗ってもらい喜んで下さる事をモットーに努力します。
暇なとき また寄ってください。そして今年渡辺は77歳になりました。幸崎の中学を卒業しました。喜寿のお祝いがあります。この街が空気が私たちを元気に育ててくれました。
皆さんありがとう。今年も頑張ってやります。


『No.』
          −−−連載は続きます。お楽しみに!−−−